歴史

【知ってほしい】 「朝鮮皇后暗殺事件」 命日に未来志向で考える日韓の若者たち

1: 仮面ウニダー ★ : 2023/10/12(木) 03:48:23.41
RKBラジオ 10/11(水) 19:05配信

ー前略ー
・閔妃暗殺を計画した日本人
閔妃は1866年に皇帝の妻となりました。国の実権は、夫である皇帝の父親(大院君)が握っていました。
1873年に閔妃たちのグループが義理の父を追放し権力を掌握した、という状態でした。
当時の朝鮮は、植民地主義の世界で「草刈り場」のようになっていました。
朝鮮より早く開国して植民地主義の世界に加わった明治の日本は、朝鮮の権益をめぐって、日清戦争を戦って勝利。
今度は、南下政策を取るロシアとの争いになりました。
国力が弱い朝鮮は、嫌々ながらでも、日本かロシアかを選択しなければならない状況になっていたのですが、
ロシア側に傾いていった閔妃が、日本にとっては障害でした。
三浦梧楼・朝鮮特命全権公使は、朝鮮駐在の日本守備隊、日本の民間人、それから日本軍人が
指導教官をしていた反閔妃派の朝鮮人部隊も巻き込んで、閔妃を宮殿内で殺害したのです。

日本の守備隊は中隊(140人以上)で、民間人は40人以上いたと言われていますが、もっと多いと言われていて、はっきりしません。
宮殿に侵入した民間人の方が、部隊より先に王妃の寝室にたどり着きますが、宮殿内には多くの女性がいて、
誰が閔妃か分からなかったそうです。そこで、容貌や服装が美しかった女性3人を殺害しています。
そのうちの1人が閔妃でしたが、あとの2人はお仕えする侍女でした。
ー中略ー

実は、「閔妃を刺し殺した刀」と言われる肥前刀が福岡市にあります。博多祇園山笠で知られる櫛田神社で保管しています。
殺害に関わった日本人が奉納したものです。身近なことだなという感じがします。

・もし「他国軍隊が皇居に乱入し、皇族を殺害した」なら――
最後の最後で誰が殺害したのかはっきりしていないのですが、乱入したのが日本人だったことは間違いありません。
かけつけたロシア公使とアメリカ公使本人が、宮殿から刀を下げて出てくる日本人を目撃していて、
言い逃れできる状態ではありませんでした。猛抗議を受けて、事件に関わった日本人をすぐに出国させています。
皇帝は、暗殺に加担したとして朝鮮人3人を処刑しましたが、それ止まり。
熊本出身の安達謙蔵ら48人は日本で裁判にかけられましたが、証拠不十分で「免訴」。軍人も軍法会議で無罪となっています。
これについて、驚くべきことに当時の日本人は大喝采を送ったのです。そういう時代だった、ということですね。
ロシアの南下を恐れるイギリスやアメリカは日本に好意的な対応を取ったこともあり、
安達謙蔵はのちに政治家になりって、大臣を歴任します。植民地主義の時代に弱かった国の悲哀を感じます。

皇后自身は策謀好きで、ぜいたくが好きで、決して国民から好かれているとは言いがたい人でしたが、
外国人から「国母」を殺された朝鮮人たちは大いに反発しています。これがどういうことか、考えていただきたいのです。

「東京で、武装した外国の軍隊が皇居に乱入し、皇族を殺害した」としたら――。

天皇制をどう思うかに関わらず、「それは許せない」となると思います。
この問題は、韓国ではよく知られている話なので、日本人があまり知らないことが気になっています。
独断暴走して外国の要人を暗殺した軍人たちが裁かれなかったという前例ができたわけですが、
もしかすると日本の将来にも影響したかもしれません。
ー後略ー

全文はソースから
https://news.yahoo.co.jp/articles/3e4293e6f5ce73a6e6ab0046ad0b527d6f397e46

引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1697050103/

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【文禄の役】 日本軍が朝鮮の人々を捕らえ、首を取り鼻を削いだ蛮行

1: 仮面ウニダー ★ : 2023/10/11(水) 04:33:12.85
 大河ドラマ「どうする家康」では、ついに文禄の役がはじまった。文禄の役では、日本が朝鮮半島に攻め込むと、
朝鮮の人々を捕らえて連行した。その辺りを詳しく確認することにしよう。

 日本における戦争では、乱取り(人や物資の強奪)が軍事的な慣行になっていた。
しかし、日本軍が朝鮮半島に攻め込んだとき、日本軍による乱取りは禁止が命令された。
秀吉は長く朝鮮を支配するため、逆に朝鮮人の還住を推し進めたのである。

 とはいえ、秀吉の強い決意にもかかわらず、乱取り禁止の方針は将兵に無視され、戦時中の朝鮮半島各地で乱取りが行われた。
次に、その実態をもう少し詳しく確認することにしよう。

 文禄元年(1592)、日本軍が朝鮮半島に上陸すると、平塚滝俊(常陸佐竹氏の家臣)が
肥前名護屋城(佐賀県唐津市)で留守を務める小野田備前守に書状を送った(「秋田県立公文書館所蔵文書」)。

 滝俊の生没年や出身地は不明であるが、佐竹氏家臣団の中では、中級クラス以上の地位にあったと考えられている。
その書状には、乱取りの一端が書かれているので、次に関係部分を示しておこう。

 高麗で二・三の城を攻め落とし、男女を生け捕りにして送ってきた。
(朝鮮人の)首を積んだ船があるようだが、私は見たことがない。男女を積んだ船は見た。

 内容は、朝鮮半島で捕らえた男女を日本に送ってきたことを示しており、現地で日本軍による乱取りを行った証になろう。
朝鮮人の首を積んだ船もあったようだが、滝俊は見たことがないという。
朝鮮人の首とは、日本の将兵が軍功の証として、日本へ送ったものである。

 そもそも敵兵の身分がわからないうえに、おびただしい分量になっただろうから、首実検が正確に行われたのか疑問である。
首は数だけでなく、敵兵の身分(大将格の首は価値がある)も重要だった。

 敵兵の首を取るのは序の口で、朝鮮半島では日本軍により残酷な行為が行われた。
慶長3年(1598)10月に泗川新城で戦いが行われると、島津軍は明・朝鮮の連合軍を相手に大勝利を収めた。
その際、城の外に大きな穴を掘って、討ち取った敵兵33,700人を埋めたという。

 そして、その死体から鼻だけを削ぎ取り、塩漬けにして日本に送ったのである(『島津家記』)。
敵兵の耳や鼻を削いで、持ち帰る際に塩漬けにしたのは、腐敗を防止するためだったと考えられる。

 本来、軍功を証明するには、敵兵の首を持ち帰るのが普通だった。しかし、首は非常に重たかったので、
首の代わりに耳や鼻を削ぎ取って持ち帰ることもあった。
特に、朝鮮出兵で持ち帰った耳や鼻を供養したのが耳塚(鼻塚)であり、京都市東山区の豊国神社前にある。

 このように、日本軍は朝鮮半島で数々の蛮行を行ったが、このことがかえって朝鮮の人々の反抗心を煽ることになり、
最終的に撤退せざるを得なくなったのである。

 『本山豊前守安政父子戦功覚書』は、加藤清正の配下にあった本山豊前守安政父子の朝鮮半島における
軍功を書き残したものである。同書には、「男女生子も不残撫切に致し、鼻をそぎ、其の日々塩に致し」と記されている。

 つまり、安政は男女や生まれたばかりの赤ん坊も残らず撫で切りにし、鼻を削いで毎日塩漬けにしたというのである。
もはや戦闘員・非戦闘員を問わず殺戮したので、その数は一度に20,000~30,000に及ぶこともあった。

 なお、このとき取った鼻が日本に持ち帰られ、先述した鼻塚に埋葬されたのである。
渡邊大門

10/10(火) 5:00
https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/cb846aee9c74f9fbb29277edc8bfdf159982c9e3

引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1696966392/

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【韓国】 朝鮮半島南部の「伽耶古墳群」が世界遺産に 韓国16件目

1: 仮面ウニダー ★ : 2023/09/18(月) 07:29:33.11
【ソウル聯合ニュース】サウジアラビア・リヤドで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は17日、
朝鮮半島南部に残る古代国家・伽耶の遺跡7カ所から成る「伽耶古墳群」の世界文化遺産登録を決めた。
韓国で16件目の世界遺産となる。

 伽耶は紀元前後から西暦562年まで、主に洛東江流域を中心に繁栄した小国の総称とされる。
世界遺産登録が決まった遺跡は1~6世紀中ごろまでに慶尚道と全羅道地域につくられた7カ所。

 伽耶古墳群は慶尚北道の高霊池山洞古墳群、慶尚南道の金海大成洞古墳群、咸安末伊山古墳群、
昌寧校洞と松ヒョン洞古墳群、固城松鶴洞古墳群、陜川玉田古墳群、全羅北道の南原酉谷里と斗洛里古墳群で構成される。

sarangni@yna.co.kr
2023.09.17 21:35
https://jp.yna.co.kr/view/AJP20230917000900882?section=news

引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1694989773/

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「韓国が中国の属国だった過去があるわけない」――韓国の名門大学の学生も知らない「ソウルの独立門」の由来

1: 昆虫図鑑 ★ : 2023/06/21(水) 08:17:40.90
 ソウル特別市の西大門区にある独立門は、日清戦争の後に締結された下関条約によって、朝鮮王朝が清からの独立を認められたことをきっかけに、朝鮮の独立協会によって建設されたものである(1897年完成)。

 しかし韓国では、17世紀のホンタイジの侵略以降、朝鮮王朝が清の属国であったことがほとんど知られておらず、ソウルの独立門も、清からではなく日本からの独立を記念して建てられたと勘違いしている人が多いという。

 フェリス女学院大学教授の新城道彦さんも、ソウル留学中に、名門大学の大学院生ですら、独立門の由来を知らないことに驚いたという。新城さんの新著『朝鮮半島の歴史―政争と外患の六百年―』(新潮選書)から、一部を再編集してお届けする。

 朝鮮半島の歴史をトピックごとに分割するのではなく、長い視野で描きたいという希望は、以前から心の片隅にあった。

 そのきっかけは、ソウル留学中に親しくなった延世大学の大学院生との会話にある。どのような話の流れだったかはよく覚えていないが、独立門の話題になったときに、この門が清からの独立を意味して建てられたことを知っているかと尋ねたことで、軽い口論になったのだ。
 
 その大学院生は、韓国(朝鮮王朝)が中国(清)から独立する理由などないし、属国だった過去があるわけないと反発した。韓国人の歴史認識に興味を持った筆者は、その後も延世大学やソウル大学の学生10人ほどに独立門がどこから独立したときに建てられたかを聞いて回った。1人だけ自信なさげに「たしか……清だっけ?」と答えた以外は、すべて「日本」という回答であった。
 
 20年ほど前に行った簡易な「調査」ではあるが、現在もこの結果はそれほど変わらないと思う。三・一独立運動を称える三・一節になると独立門の前で大々的なイベントが行われたりするため、そのイメージに引っ張られている人は少なくないであろう。
 
 なお、本人の名誉のために補足しておくが、前述の大学院生は独立門が建てられた頃の歴史を詳しく調べて自身の間違いを認め、友人や後輩を紹介するなどして調査に協力してくれた。

 韓国では政治家やマスメディアがたびたび日本人の歴史に対する無関心を非難し、「正しい」歴史を学ぶよう声高に訴えたりする。たしかに、日本人の多くが世界情勢や自分の人生と結びつけて歴史を学ぶのではなく、受験のためにただ年表を暗記している現状は嘆かわしいことだと思う。その意味で韓国側の非難は一理ある。

 しかし、筆者は留学時の体験から、韓国人が信じて疑わない「正しい」歴史も、実は事実にもとづかない理想像に過ぎない面があることを知った。こうしたことから、1637年に清が朝鮮を占領し、1895年の下関条約で独立を認めた事実を有耶無耶(うやむや)にせず、朝鮮王朝の建国、自主独立を謳った大韓帝国の成立、日本による韓国併合、戦後の米ソ占領、韓国/北朝鮮の樹立といった一連の流れで朝鮮半島の歴史を描かなければならないという思いが芽生えたのである。
 
 朝鮮半島は周辺国の存亡を握る緩衝地帯としてあり続けた。そこは、各国の思惑がぶつかり合う渦巻の中心ともいえる。そうした渦巻は極東だけに生じるものではない。それゆえ、朝鮮半島の歴史を知ることは世界の趨勢を理解する助けになると思う。ただし、その歴史を叙述する際に、理想に彩られた「正」の側面だけでなく「負」の側面にも光を当てなければならないことは言うまでもない。

※新城道彦『朝鮮半島の歴史―政争と外患の六百年―』(新潮選書)から一部を再編集。

https://www.dailyshincho.jp/article/2023/06210615/?all=1

【中央日報】「韓国は中国の属国ではない、駐韓中国大使は韓国から退いてください」デモに出た元軍人たち [6/14] [ばーど★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1686698407/
〝属国の悲哀〟韓国の野党党首、中国大使にペコペコ動画拡散 尹政権「新型変種コウモリ」から脱皮の契機か [6/15] [昆虫図鑑★]
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1686792190/

引用元: https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1687303060/

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【ハンギョレ】 広開土王碑に石灰を塗った…日本の調査記録を公開

1: 仮面ウニダー ★ : 2023/05/10(水) 12:39:31.01
1913年、日本による高句麗遺跡の調査原本 碑石に手を付けた中国の拓本業者との面談に注目 「1900年代から文字を自由に刻み込んだ」
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 5世紀の東アジアの歴史を揺るがした高句麗の征服君主、広開土大王(374~412)。彼の実体を近代の時代に再び知らしめたのは、日本の学者たちだった。
高さ6メートルを超える大王の碑石を彼らは初めて隅々まで調べて観察し、写真を撮り文字を判読した。
だが、公式の調査記録はまったく残すことなく去ってしまった。なぜ、そのようなことをしたのだろうか。
ー中略ー
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ー中略ー
 公開したのは、20世紀初頭に日帝が初めて基礎を築いた朝鮮半島の遺跡調査の実状を追跡してきた嶺南大学文化人類学科のチョン・インソン教授だ。
ー中略ー
no title


 公開された資料は、日本人学者たちが広開土王碑を初めて学術調査した記録の原本が出てきたという点で、重要な学術史的な意味と価値を持つ。
何より注目される資料は、広開土王碑の碑石の表面に石灰を塗り文字を任意に刻み込んだという当時の中国人拓本業者と、調査員の谷井が面談した記録だ。

 これは、現地に住んでいた拓本業者の初鵬度に会って憲兵補助員の通訳で対話したものであり、風化によって碑石の表面が摩耗すると、1900年代から石灰を塗り続け、
既存の拓本から考えた文章の文字を任意に刻み込んだという内容だ。

 広開土王碑の碑石を19世紀末の段階で日本軍などが介入し石灰を塗って内容を改ざんしたという疑惑を、
1970年代に歴史学者の李進煕(イ・ジンヒ)が提起したことはあるが、この面談資料はこれまでまったく知られていなかった。

 1980年代初め、中国の学者の王健群が、拓本を行った業者の子孫に会い、碑石を保存し金を儲けるために石灰を塗り文字を改めて書き込んだことを先祖から聞いたという伝聞を入手し、
論文で紹介したことはあるが、110年前に拓本を取った当事者にインタビューした面談記録の実物は初めて出てきたものであるため、学界に波紋を広げるものとみられる。

 もちろん、この面談メモは、日本軍が直接碑石を改ざんしたという決定的な物証ではない。
谷井と踏査を共に行った関野や今西が、数年後に自身の個人的な論文で、一部は伝聞形式で拓本業者の陳述を引用した記録もあるが、
1900年代初期から石灰を塗り続け碑石の表面を補強し、誰が提供した文字テキストを基準にしたのかは不明だが、
新たに字を書きこみ続けたという当事者の直接証言が記録された資料が確保されたという点で、李進煕の碑文改ざん説の再検討の必要性を喚起させる意味があるとチョン教授は分析した。

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 さらに、一つ特異な点は、現在の広開土王碑の碑文について韓日学界の間で激しい論議が起きている辛卯年条に該当する内容がまったくないという点だ。
辛卯年条は、広開土王の在位期である391年の辛卯年に、倭の勢力が海を渡り新羅と百済を破り臣民としたという一節、
いわゆる「来渡海破」の一節だが、当時、古代日本の大陸進出の歴史を見つけるために血眼になっていた総督府と日帝の植民史学界の立場で考えると、
この一節を写真にまったく撮らないのは、きわめて異例なことだ。

 チョン教授は「当時の石灰が塗られた碑石の状態が、自分たちが解釈した来渡海破の一節を示すことができないコンディションだったので、
大きく取りあげなかった可能性が高い」とする分析を出した。
ー後略ー
ノ・ヒョンソク記者、図版資料:チョン・インソン教授提供

全文はソースから
登録:2023-05-10 06:37 修正:2023-05-10 10:44
https://japan.hani.co.kr/arti/culture/46690.html

引用元: http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1683689971/

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