日帝

【韓国】与党議員「『勤労』は日帝時代の遺物、『労働』に変更を」

1: ねこ名無し ★@\(^o^)/ 2017/08/20(日) 23:00:17.37 ID:CAP_USER.net
与党「共に民主党」の第2政策調整委員長を務める朴光温(パク・クァンオン)議員は20日、全ての法律で「勤労」の代わりに「労働」という言葉を使用するよう定める法案を代表発議したと明らかにした。

朴議員は報道資料を通じ「『勤労』は勤労挺身(ていしん)隊に由来する言葉であり、日帝時代(日本による植民地支配時代)の遺物だ」と説明した。

名称修正の対象となるのは、勤労基準法、勤労福祉基本法など計12件。法案が通過すれば「勤労」という単語が付く法律案の名称は全て「労働」に変わる。また、内容も例えば「勤労者」は「労働者」に、「勤労時間」は「労働時間」に変わる。

朴議員は「国際労働機関や世界の立法例でも『勤労者』という用語は使っておらず、漢字文化圏である中国・台湾・日本の労働法でも使われていない」として「『労働』は対等の位置での能動的な行為を指すが、『勤労』は忠実で勤勉という意味が強調されており、受動的で雇い主に従属するという概念がある」と指摘した。

朴議員はまた「労働節(メーデー)は、朴正煕(パク・チョンヒ)政権時代の1963年に『勤労者の日』に変更された。労働を理念的言語だと疎み、『模範勤労者』の養成を目的としていた雇い主中心の経済システムの弊害」だと主張した。

さらに朴議員は「労働法律の存在理由は、甲と乙の概念をなくし、対等の関係を保障するためのもの。法律用語と社会の認識を変えていくことが、労働がきちんと尊重される社会となるための第一歩」と法案発議の理由を説明した。

コ・ソンミン記者

http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2017/08/20/2017082001673.html

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1503237617/

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【韓国】麻の寿衣は日帝残滓…「収奪を強化しようと風習歪曲」

1: ねこ名無し ★@\(^o^)/ 2017/08/15(火) 10:56:00.99 ID:CAP_USER.net
日本が罪人を象徴する麻の寿衣をどのように植民地の朝鮮で広めてきたかなどを確認する研究結果が出てきた。

冠婚喪祭を重視する儒教思想の中で王室だけでなく民間でも絹などで寿衣を作って親の遺体を覆うことを「孝」と考えたが、日本によって「罪人」が着ていた麻の寿衣に儀礼文化が格下げ・歪曲された過程を説明する研究だ。

チェ・ヨンウ檀国(タングク)大教授(伝統衣装学科)が最近発表した論文「現行麻寿衣の登場背景および拡散過程研究」によると、麻の寿衣は1925年に淑明女子高等普通学校教員の金淑堂(キム・スクダン)(女性)が著した『朝鮮裁縫全書』で本格的に登場する。

金淑堂はその間、韓国初の裁縫教材『朝鮮裁縫全書』の著者として知らされたが、今回の論文で1916年から1921年まで平壌(ピョンヤン)女子高等普通学校の嘱託教員として勤務したことが初めて確認された。

平壌女子高等普通学校は日本の植民統治・収奪機関である朝鮮総督府の直属機関。朝鮮総督府の職員録を見ると、金淑堂は月給15-50ウォンを受けたと記録されている。金淑堂はその後、私立学校の淑明女子高等普通学校に移って『朝鮮裁縫全書』を著した。

当時、日本が三一独立運動の影響で植民政策を武力による無断統治から「文化統治」に変えた時期だ。

金淑堂は教員という身分を活用し、現実とはかけ離れた寿衣を強調した。その間、学界では朝鮮人の金淑堂がなぜ麻の寿衣の定着に率先したのか明確に説明されていなかったが、朝鮮総督府の職員という身分が明らかになったのだ。

麻の寿衣が日帝の残滓という研究は従来からあったが、麻の寿衣の登場背景と拡散過程はチェ教授を通じて今回明らかになった。チェ教授の論文は韓国服飾文化学会の学術誌『韓服文化』最新号(夏号)に掲載された。

チェ教授によると、我々の民族は罪人を象徴する麻の寿衣を避けた。

壬辰倭乱当時に避難中の先祖に会いに行かなかったという理由で罪人になった生理学者の成渾(ソン・ホン、1535-98)は遺書に「私は軍部から罪を得たため(中略)服と遺体にかぶせる布は麻にして(中略)私の意志に背くことがないようにしてほしい」という記録が光海君日記(3冊)で伝えられている。

父母と死別した子は「罪人」という意味で麻で作った喪服を着た。

朝鮮総督府は金淑堂が強調した麻の寿衣を『儀礼準則』(1934年)に記して公布し、朝鮮社会内での定着・拡散に本格的に乗り出した。金淑堂が親日反民族行為をした根拠は伝えられていないが、結果的に儀礼準則の中の麻の寿衣の土台を築いたということだ。

朝鮮総督府は公務員組織を活用するのはもちろん、各種団体、移動講演会などあらゆる手段を総動員し、儀礼準則の定着に乗り出した。麻の寿衣は収奪をさらに強化しようという植民政策の一環というのがチェ教授の説明だ。

儀礼準則の公布当時、宇垣一成朝鮮総督は旧態の改善を強調したが、本格的な戦時体制を控えていたという理由でだ。日本は公布2年後の1937年に日中戦争を、1941年には太平洋戦争を起こした。

儀礼準則を通じて植民朝鮮人の窮乏生活を改善しようというのではなく節約した物資を国防金(物品)として献納させようという狙いがあったというのが、チェ教授の説明だ。

1938年11月28日に慶尚北道金泉(キムチョン)の商店街で準則に基いて儀礼をした後、節約した現金を大邱(テグ)神社に献納した人物を知らせる内容の記事が日刊新聞に掲載された。

チェ教授は14日、中央日報との電話で「罪人を形象化する麻の寿衣を普遍化し、植民地朝鮮人の精神を疲弊化させた」とし「農家の副業として奨励し、収益金の一部を国防金として献納させた『むしろ編み』のように、麻の寿衣の拡散で得た余剰資産や物資を収奪したりもした。植民政策の一環と解釈できる」と述べた。

一方、檀国大は昨年伝統寿衣展示会を開くなど復元事業に取り組んでいる。

http://japanese.joins.com/article/325/232325.html

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チェ・ヨンウ教授が復元した伝統寿衣の前で日本が麻の寿衣をどのように植民地の朝鮮に広めたかなどを説明している。(写真=檀国大)

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1502762160/

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【韓国】日帝式地名、いつまで使い続けるのか? 専門家「昔の地名を調査・整理し、正すべき」

1: ねこ名無し ★@\(^o^)/ 2017/08/14(月) 23:39:37.38 ID:CAP_USER.net
太宗・世宗の村「俊秀坊」、「壯義洞」の名は消え
ソウルの最も伝統ある町内の「(郷)校洞」は「楽園洞」に
専門家「昔の地名を調査・整理し、正すべき」

解放から72年も経ったが、ソウルの地名の30%以上は依然として日帝の支配から抜け出せていないことが分かった。

14日、韓国地名学会の説明を総合すれば、ソウルの法定洞467個のうち30%以上の140洞の名前が日帝時期に誤って付けられたものであることが分かった。残りの70%も、朝鮮時代まで使われた伝統地名ではなく、日帝が1914年に洞名称改定時に既存の地名を参考にして新たに付けた地名だ。

解放後、日帝が誤って付けた地名の一部は直したが、大部分は日帝式の“町”を韓国式の“洞”に変える水準だった。

例えば、日帝の洞名称改定で太宗(テジョン)李芳遠(イ・バンウォン)と世宗(セジョン)が暮らした村の地名が完全に消え去った。『朝鮮王朝実録』によれば、世宗が生まれたところはソウル北部の「俊秀坊」潛邸(王の私邸)であり、育って即位したところは北部の順化坊「壯義洞」本宮(王の私邸)だった。

しかし日帝の歪曲で俊秀坊は通仁洞(トンインドン)に、壯義洞は孝子洞(ヒョジャドン)に変えられた。特に壯義洞は朝鮮時代、現在の西村(ソチョン)地域の代表的地名なのに、日帝の歪曲により完全に消えてしまった。

また、ソウルで最も由緒深い地域であり、高麗時代に南京(ソウル)の郷校があった村である「(郷)校洞」は楽園洞(ナグォンドン)に変わった。日帝がこの一帯の地名の一つである「園洞」に「楽」字を勝手に付けて作ったでたらめな地名だ。

五葉松が多かった「栢洞」(松の実谷)は東崇洞(トンスンドン)に変わった。「崇教坊」の東側町内という誠意のない名前だった。この他にも「薬コゲ」(薬ヒョン)は中林洞(チュンニムドン)に、「トングルネ」(蔓草川)は旭川(ウクチョン)に、「漢ネ」(漢川)は中浪川(チュンナンチョン)に勝手に変えられた。

当時日帝は、人が多く暮らし知名度の高かった鍾路区(チョンノグ)一帯の地名は既存地名2個以上を混ぜ合わせる方式で歪曲した。

「玉流洞(オクリュウドン)」と「仁旺洞」(インワンドン)は玉仁洞(オギンドン)に、「清風渓」(チョンプンゲ)と「白雲洞」(ペクウンドン)は清雲洞(チョンウンドン)に、「雲ヒョン洞」と「泥洞」(ニドン)は雲泥洞(ウンニドン)に、「寛仁坊」(クァンインバン)と「大寺洞」(テサドン)は仁寺洞(インサドン)に変えて、本来の地名の意味を失わせた。

また「楼閣洞」(ヌガクドン)は楼上洞(ヌサンドン)と楼下洞(ヌハドン)に分けることもした。

地名学会のペ・ウリ名誉会長は「直ちに昔の地名を復活させることはできないとしても、昔の地名を調査してよく整理しておかなければならない。それでこそ後に地名を付け直す時に活用できる」と話した。

ファン・ビョンウ韓国文化遺産政策研究所長は「解放後に親日派が政権を掌握し日帝式地名を清算する作業がなされなかった。今からでも韓国の実情に合わない道路名住所の導入を中断し、正しい昔の地名を蘇らせる事業を始めなければならない」と話した。

キム・キュウォン記者

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/28182.html

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ソウルの地名の30%以上が日帝が誤って付けた地名であることが分かった。ソウルで地名の歪曲が最も深刻なところは、古くから人が多く暮らし知名度の高かった四大門内だった=キム・キュウォン記者//ハンギョレ新聞社

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1502721577/

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【韓国】 昔は東海にも塩田があったが、日帝が塩を専売にして失われた~チョン・ジョンヨンの「文学で習う私たちの歴史」

1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2017/08/13(日) 19:10:06.10 ID:CAP_USER.net
昔は東海にも塩田があった。「まさか?」「本当に?」あなたはこう言って信じられないという表情を浮かべるかもしれない。私たちの記憶の中に「東海=塩」という等式は成り立たないからだ。

塩は西海で生産する天日塩を私たちの固有方式と思っている人が多い。しかし、天日塩は伝統方式で製造した塩ではない。天日塩の歴史はせいぜい100年ほどで、日帝が残した残滓の一つだ。

日帝は大韓帝国の経済権を奪うために紅参(朝鮮人参)、タバコ、塩の専売に関心を持った。当時、我が国と日本は海水を沸かして作る塩、すなわち煮塩を生産した。この方法は塩の生産費が多くかかり国家が独占しても大きな利益を残せなかった。

また、清国からこっそりと持ってきた清塩の価格が低かったので、日帝は塩生産費削減のために相当な努力を傾けた。その結果、日本植民地の台湾の塩製造方法、すなわち天日塩製造法を我が国に導入することにした。日帝は初め仁川(インチョン)に天日塩田を作り、この実験はとても成功した。その後、西海のあちこちに天日塩田ができ、結局、日帝は塩専売を施行することができた。塩の大量生産で日帝は経済的に大きな利益を得た。こうして私たちの塩である煮塩は天日塩に席を渡して完全に痕跡をなくすことになった。これが天日塩の歴史だ。

残念なことに私たちの塩である煮塩を素材に扱った本はそれほど多くない。
(中略:煮塩が出てくる本の紹介)

このようにして作った「煮塩」は天日塩よりあまり塩辛くなくて栄養もさらに豊富だ。もちろん、私たちの伝統塩である煮塩がすべての面で天日塩より良いと見ることはできない。しかし、私たちの昔のものは何か、正しく知ることが必要だ。

最近、国内で<軍艦島>という映画が開封された。私たちは軍艦島を残忍な歴史と記憶する。日帝は戦争に必要な石炭を採掘するために朝鮮人を強制的に徴用し、多くの若者が軍艦島で名もなく死んでいった。しかし、日本の歴史は私たちと全く違う。2015年7月、ユネスコ世界遺産に軍艦島を「日本の明治維新時代の産業革命施設」に上げた。

同時期、ユダヤ人もまた、私たちと似た苦痛を味わった。ナチの蛮行も日帝と大きく異ならない。しかし、結果は私たちと正反対だ。戦犯のドイツは誤りを謝ったが、日本はそうではない。同じ事件にもかかわらず、なぜこの様な結果を招いたのだろうか?

筆者は私たちが私たちの歴史を世界へ粗雑に広報したためと考える。ユダヤ人はナチの大虐殺行為、すなわちホロコースト(Holocaust)を主題に映画・小説・ドキュメンタリーなどを作って全世界に伝えた。そのような側面から見る時、<軍艦島>もやはり私たちの辛い歴史を知らせる小さな努力と考える。

最近、この様な試みが少しずつ活発になっていることを非常に肯定的に評価する。私たちは正しい歴史を知らなければならず、歴史を勉強しなければならない。それでこそきちんと広報できる。作家はこの様な歴史を積極的に知らせなければならず、読者は関心を持つことで私たちの歴史が正しく立てられる。この様な趣旨で<文学で習う私たちの歴史>コーナーを企画した。

チョン・ジョンヨン/作家
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ソース:デジタル経済(韓国語) <チョン・ジョンヨン作家の「文学で習う私たちの歴史「>昔には東海にも塩田があった。「正しい歴史
http://www.deconomic.co.kr/news/articleView.html/?idxno=22320

関連スレ:【書籍】 天日塩が伝統の塩?百年前には無く日帝が台湾真似て天日塩田作った~「小さいけれど大きな韓国史、塩」★2[08/04]
http://awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1344087102/

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1502619006/

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【韓国】 きらびやかな日本文化とみすぼらしい朝鮮人という構図~日帝時代の現実を反映した絵はがき300枚分析

1: 蚯蚓φ ★@\(^o^)/ 2017/08/07(月) 01:37:14.04 ID:CAP_USER.net
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▲朝鮮神宮が描かれた日帝時代の絵はがき(写真=科学博物館)

[イーデイリーチェ・サンウ記者]日帝から侵奪された日帝時代の社会像が描かれた絵はがきを分析した論文が発表された。

ハン・ヒョンソク韓国海洋大講師は東アジア日本学会が出す学術誌「日本文化研究」に「写真絵はがきに見る植民地朝鮮における国家神道体制宣伝と神宮」というタイトルの論文を掲載した。

日本が京城に建設した「朝鮮神宮」とみすぼらしい朝鮮人駕籠かきの姿を写した絵葉書き。日帝はきらびやかな日本文化とみすぼらしい朝鮮人という構図を通じて朝鮮に弱者のイメージを投影した。

ハン講師はこの様な絵葉書300余枚を分析した。彼はその当時のハガキの特徴として△朝鮮神宮と対比される朝鮮のイメージの組み合わせ△鳥居を強調△下から上を見上げる構図△桜の花△厳粛さを強調する説明文などがあると話した。

ハン講師は「朝鮮神宮は日帝を象徴する建物だったが、朝鮮人を身体的・精神的に支配し規制する機関の役割も果たした」として「絵はがきは大量生産と流通が可能で日本の固有信仰である神道を後押しする内容を知らせるのに適した」と説明した。

ソース:イーデイリー<日帝時代現実反映した絵葉書300枚分析>
http://www.edaily.co.kr/news/NewsRead.edy?SCD=JI71&newsid=01722006616024696

引用元:http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/news4plus/1502037434/

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