1: 雨宮◆3.yw7TdDMs 2014/08/15(金)00:06:54 ID:2NUrVctVb
<光復節特集>命をつないだドブロク(濁酒)造り…
<寄稿>李杏理(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程)
69年前の今日、8・15をむかえた同胞は、日本の地でも「ウリヌン ヘバンテッター!(私たちは解放された)」と村々で叫び合った。
土地を奪われ、徴用や徴兵に従うしかなかった苦しみからようやく解かれたのだ。
しかし、それはまた、日本での働き場を失うことをも意味した。
そこで、くず拾いや物品の買出し・売り出し、濁酒(=マッコルリ)づくりをして食いつなぐことになる。
同胞たちからは濁酒の記憶がよく現れ、断片的には語り継がれている。
また、敗戦直後は日本各地で連日のように濁酒をめぐる事件があり、新聞記事になっている。
報道では、おそろしい「密造」事件として語られ、同胞が犯罪集団であるかのようなイメージをつくっている。
そこでは先に述べたような、朝鮮人が失業状態に置かれており、
生活の困窮をしのぐためになされた面が抜け落ちているのだ。
日本にいた同胞の8割は帰国を希望していた。だが、すでに土地と生活基盤を失い、政治も落ち着く気配がないために、
帰りたくとも帰れなかった。よって、なんとか日本で生きる道を探ったのだ。
とくに、1947年におきた神奈川県川崎市における濁酒取締りと税務署員の死亡後に、同胞への摘発がすすめられていく。
この日、仕事を終えた税務署員が、帰り道で数名に囲まれて「税務署員か」と問いつめられた。
「そうだ」と答えると暴行を受け、それが致命傷となって3日後に死亡した。
大蔵省当局はこの事件を、「不逞の報復」として危険視した(「酒類密造摘発に関する態勢確定の件」)。
その後、強制送還をも視野に入れて、在日同胞を対象とした「密造」の取締りが開始された。
横須賀(神奈川県)では同胞女性約30人が警察署に押しかけ、「警察に生活権をおびやかされた」と、
署長に会わせなければ野宿でもするとすわりこんだ。
大阪では子どもたちがトラックの前に寝転んで検挙隊の進行を阻止し、女性のヘアー・ピンさえも武器にしてタイヤをパンクさせたのだ。
つまり一部の活動家や男性だけではなく、性別や年齢や学歴をも超えた同胞が主体となって広範になされたのが「濁酒闘争」である。
「ヤミ」をめぐっては1946年、椎熊三郎議員は、朝鮮人・台湾人が「あたかも戦勝国民のごとき態度をなし、
(略)その特殊な立場によって警察力の及ばざる点のあるを利用し、闇取引をなし日本の闇取引の根源は正に
今日この不逞なる朝鮮人などが中心となっている」と発言した。しかし実際には、露店商で検挙されるのは同胞より日本人の方が多かった。
そして1949年には、吉田茂からマッカーサー宛てに、日本にいる朝鮮人全員の強制送還さえ提案されていた。
違反をせねば生きていけなかった当時、同胞たちは生活保障もないままバッシングにあい、生きる途が切り縮められていった。
各地の同胞集住地で取締りにあったとき、多くの同胞が必死に抵抗した。それは、たんに犯罪や違反の事件群なのではなく、
民衆たちが自らの生活と権利をかけて闘った「濁酒闘争」というべき軌跡である。
これからも1世が生き抜いてきた営為と歴史を掘り起こし、解きほぐされていない偏見や痛ましい過去を克服していきたい。
それは、3世以降の私たち自身がどのような背景をもって生まれ、
どのような人生を切り開いていくべきかを探究することにもなるだろう。(2014.8.15 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=10&category=3&newsid=19329
<寄稿>李杏理(一橋大学大学院言語社会研究科博士課程)
69年前の今日、8・15をむかえた同胞は、日本の地でも「ウリヌン ヘバンテッター!(私たちは解放された)」と村々で叫び合った。
土地を奪われ、徴用や徴兵に従うしかなかった苦しみからようやく解かれたのだ。
しかし、それはまた、日本での働き場を失うことをも意味した。
そこで、くず拾いや物品の買出し・売り出し、濁酒(=マッコルリ)づくりをして食いつなぐことになる。
同胞たちからは濁酒の記憶がよく現れ、断片的には語り継がれている。
また、敗戦直後は日本各地で連日のように濁酒をめぐる事件があり、新聞記事になっている。
報道では、おそろしい「密造」事件として語られ、同胞が犯罪集団であるかのようなイメージをつくっている。
そこでは先に述べたような、朝鮮人が失業状態に置かれており、
生活の困窮をしのぐためになされた面が抜け落ちているのだ。
日本にいた同胞の8割は帰国を希望していた。だが、すでに土地と生活基盤を失い、政治も落ち着く気配がないために、
帰りたくとも帰れなかった。よって、なんとか日本で生きる道を探ったのだ。
とくに、1947年におきた神奈川県川崎市における濁酒取締りと税務署員の死亡後に、同胞への摘発がすすめられていく。
この日、仕事を終えた税務署員が、帰り道で数名に囲まれて「税務署員か」と問いつめられた。
「そうだ」と答えると暴行を受け、それが致命傷となって3日後に死亡した。
大蔵省当局はこの事件を、「不逞の報復」として危険視した(「酒類密造摘発に関する態勢確定の件」)。
その後、強制送還をも視野に入れて、在日同胞を対象とした「密造」の取締りが開始された。
横須賀(神奈川県)では同胞女性約30人が警察署に押しかけ、「警察に生活権をおびやかされた」と、
署長に会わせなければ野宿でもするとすわりこんだ。
大阪では子どもたちがトラックの前に寝転んで検挙隊の進行を阻止し、女性のヘアー・ピンさえも武器にしてタイヤをパンクさせたのだ。
つまり一部の活動家や男性だけではなく、性別や年齢や学歴をも超えた同胞が主体となって広範になされたのが「濁酒闘争」である。
「ヤミ」をめぐっては1946年、椎熊三郎議員は、朝鮮人・台湾人が「あたかも戦勝国民のごとき態度をなし、
(略)その特殊な立場によって警察力の及ばざる点のあるを利用し、闇取引をなし日本の闇取引の根源は正に
今日この不逞なる朝鮮人などが中心となっている」と発言した。しかし実際には、露店商で検挙されるのは同胞より日本人の方が多かった。
そして1949年には、吉田茂からマッカーサー宛てに、日本にいる朝鮮人全員の強制送還さえ提案されていた。
違反をせねば生きていけなかった当時、同胞たちは生活保障もないままバッシングにあい、生きる途が切り縮められていった。
各地の同胞集住地で取締りにあったとき、多くの同胞が必死に抵抗した。それは、たんに犯罪や違反の事件群なのではなく、
民衆たちが自らの生活と権利をかけて闘った「濁酒闘争」というべき軌跡である。
これからも1世が生き抜いてきた営為と歴史を掘り起こし、解きほぐされていない偏見や痛ましい過去を克服していきたい。
それは、3世以降の私たち自身がどのような背景をもって生まれ、
どのような人生を切り開いていくべきかを探究することにもなるだろう。(2014.8.15 民団新聞)
http://www.mindan.org/shinbun/news_view.php?page=10&category=3&newsid=19329
引用元: http://awabi.open2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1408028814/
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